婚約指輪の購入を考え始めた男性にとって、ダイヤモンドの価格や品質について、事前にしっかりと確認する必要があります。
いざ、ダイヤモンドの婚約指輪を購入に宝石店を訪れた際、店員に言われるがままでは、店側に騙されてしまうかもしれません。
ただどうしてダイヤモンドはこんなに値段が高いのか、小さな石に何十万円も出すほどの希少価値が本当にあるのか、当然そう思いますよね。
このプログでは、宝石の権威、米国宝石学協会・GIAの宝石鑑定士であり、25年のキャリアをもつプロのバイヤーが、ダイヤモンドの興味深い歴史を伝えています。
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GIA・米国宝石学協会 宝石鑑定ディプロマ
これから婚約指輪の購入を考えているあなたに、ダイヤモンドの取引の歴史を少しだけ知ってもらうことで、高い金額を出して婚約指輪を贈るモチベーションにしていただければと思います。
是非参考にしてみて下さい。
ダイヤモンドの取引は紀元前4世紀からすで始まっており、インドとアントワープを中心に発展していきました。
1.ダイヤモンドの取引はインドから始まる
19世紀以前のインドでは、ダイヤモンドは豊富に採掘されていました。
当時は、現在の様に地中に穴を掘って採掘する方法ではなく、河の中や河岸に流れ着いた原石を、人の手によって採取されていました。
ダイヤモンドが世界で一番最初に発見されたのは、古代のインドです。
この頃の人々は、ダイヤモンドの重さを計るため、独自の単位を使用していました。
また、当時インドでも裕福な層の人々にとって、ダイヤモンドは大変価値のあるものでした。
古代の時代には、現代の様に大金を預かってくれる銀行のようなものはありませんでした。
彼等は、多額の現金を一粒のダイヤモンドに交換するようになりました。
そうする事により、財産の保管や移動が軽く済むようになり、盗難などのリスクも避ける事ができるからです。
ダイヤモンドが投資対象としてすでに、古代の時代から取引されていたのです。
2.世界のダイヤモンドセンター • アントワープ
16世紀初頭にインドに最初のヨーロッパ人が到着するまで、ヨーロッパと東アジアの間の貿易は栄えていました。
その要所がイタリアのヴェネツィアであり、次第にヴェネツィアは、ダイヤモンド貿易を独占するようになっていきます。
その頃、ヴェネツィアからベルギーのブルージュへダイヤモンドの多くが運ばれていき、ブルージュは次第にダイヤモンドの研磨加工の要所として発展していきます。
そのブルージュは、14世紀の終わりまで、ベネチアと結ばれたダイヤモンドの商業都市として、確固たる地位を築きました。
その後50年をかけて徐々に衰退し始め、代わりにアントワープが、ダイヤモンドの取引場所として台頭してきました。
ブルージュが担っていた多くの経済活動に加て、ダイヤモンドの取引は次第にアントワープにシフトし、アントワープは16世紀に入ってさらに繁栄して行きます。
この時までに、アントワープはすでにダイヤモンド加工技術の開発において、世界的に重要な役割を果たしていました。
たとえば、フランス国王のフランソワ1世は、パリのダイヤモンド職人ではなく、代わりにアントワープの職人に注文したことで有名でした。
当時アントワープは、ヨーロッパの商業の中心地で、世界の貿易全体の約40%がその港を通過していました。
またダイヤモンドに対するアントワープの名声も17世紀には不動のものになっていました。
3.アムステルダムのダイヤモンド時代
17世紀の終わりになると、アントワープに変わり、オランダのアムステルダムが貿易の主要都市として台頭してきました。
当時、宗教的および市民的自由を提供する特権都市であったアムステルダムは、18世紀までに、ダイヤモンドの貿易においてほぼ独占するようになりました。
それ以来、品質の良いダイヤモンド原石はアムステルダムが保有し、アントワープには品質の劣るダイヤモンドしか来ない状態になっていました。
ただ、アントワープの職人たちは、この困難な状況において生き残りをかけて、小さくて平凡な原石も、細かく加工して宝石に変える技術を磨いていきました。
4.南アフリカで新しいダイヤモンド鉱山が発見される
1866年、南アフリカで最初のダイヤモンドが発見されます。
数年後には世界最大のダイヤモンド鉱床であるキンバリー鉱床が発見され、キンバリーダイヤモンドの時代へとつながっていきます。
その後、更に南アフリカでは大規模な探査が行われて、次々に新しいダイヤモンド鉱床が発見され、ヨーロッパへの大量供給をもたらすダイヤモンドの新時代を迎えるのです。
南アフリカでのダイヤモンドの発見後、大量の原石がヨーロッパへ流入したことによって、世界有数のダイヤモンドセンターとしてのアントワープの地位は復活して行くことになります。
1930年代に入り、世界的な不況がダイヤモンド貿易に大きな打撃を与え、ダイヤモンドの加工工場が数週間完全に閉鎖されることもありました。
状況は、第二次世界大戦が勃発するまで続き、戦時中は、アントワープから多くのユダヤ人ビジネスマンがナチスドイツの取り締まりから逃れ、米国、ポルトガル、イギリスで、ダイヤモンド貿易を続けました。
そして戦後になって、ダイヤモンドの世界的供給会社、デビアスが行なった大々的なキャンペーン広告によって、それまでヨーロッパの一部の貴族階級でのみの慣習だった、ダイヤモンドの婚約指輪が世界的な慣習になっていったのです。
それは、戦後の復興から高度成長期に入っていた日本にも一大センセーションを巻き起こす事となり、
『 ダイヤモンドは永遠の輝き 』
『 婚約指輪は給料の三か月分 』
このフレーズと共に、日本に大量のダイヤモンドが入って来るようになります。
5.日本はアメリカを抜いて、世界第一位のダイヤモンド輸入国になる
その後1990年代には、日本は世界一のダイヤモンドの輸入国となっていきます。
ダイヤモンドの歴史において、消費国がトピックスとなったのは、後にも先にも日本だけで、宝飾品販売の市場規模は、最大で7兆円に達したのです。
ちなみ2021年の宝飾品市場は1兆円に満たないものとなっています。
この頃のダイヤモンドの日本の消費量は凄まじいものがあり、まずそれまでダイヤモンドの輸入量一位のアメリカをあっさりと抜き去り、世界第一位に踊りでます。
また、量だけではなく、質の高い高額なダイヤモンドの輸入も世界一位で、その象徴が、オーストラリア・アーガイル鉱山からのピンクダイヤモンドの輸入量もトップになったのでした。
ピンクダイヤモンドは今も当時も高額ダイヤモンドの象徴とされ、1ピース何千万円もするものが飛ぶ様に売れた時代だったのです。
ちなみに現在のピンクダイヤモンドの輸入第一位は中国です。
また、その間に日本市場向けに『 開発 』されたダイヤモンドが後に世界市場でヒットする事となりました。
それがカットの最高品質を表す、
『 エクセレントカット 』です。
今では、ダイヤモンドの品質基準としては当たり前の『 エクセレントカット 』ですが、当時初めて見た時に、その衝撃的な輝きに言葉を失ったのを記憶しています。
エクセレントカットのダイヤモンド
このダイヤモンドカットの飛躍的進歩は、コンピュータのプログラミング技術の向上から来たものです。
それまでダイヤモンドのカッティングは、ほぼ手作業によるものだったので、理想カットに仕上げる事が困難でした。
ただ現在は、ダイヤモンドのカッティングはほぼコンピュータプログラムにより管理され、エクセレントカットの上をいく、究極のカット、3EXELLENT( トリプルエクセレントカット )を実現しています。
■ 2022年現在の成熟したダイヤ市場
ダイヤモンドに関する開発技術は、コンピュータプログラムによって頂点を極めつつある中、1990年代中頃から日本は経済力が下降し始め、ダイヤモンドの輸入量もまた急激に減少していきました。
それに対して中国経済の台頭により、その後ダイヤモンドの世界市場は、中国への一極集中へと移っていきました。
中国からの、ダイヤモンドに関する正確な輸入統計は出ていないのですが、現在のダイヤモンド輸入量世界第一位は中国とアメリカが争っている形になっています。
昔から『 ダイヤモンドは、最も経済力のある国へ向かう 』と言われています。
今後の世界経済を占うのであれば、宝飾品用に使用される加工ダイヤモンドの輸入量に注目してみて下さい。
今現在経済状況が良く見えていても、ダイヤの輸入量が下がり初めていれば、実態経済も下がっていくでしょう。
また、ダイヤの輸入量が増えている国があれば、今後経済発展して行くサインとして考えられます。
いかがでしたでしょうか。
有史依頼、人間にとって最高の宝石でありつづけているダイヤモンドの輝きを、改めて婚約指輪として、大切な方に贈る事を考えてみてはいかがでしょうか。
そして無事に贈る事が出来た時、相手にここで得た知識を少しだけ披露してみて下さい。
その想いは必ず相手に伝わると思います。
筆者
ヨーアンドマーレ代表
GIA・GG 米国宝石学協会 鑑定士 島田 洋輔
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